沿革

815(弘仁6)年
弘法大師空海上人が薬師如来を刻し草庵を結び、東光院と名付けたのを開創としています。
そのとき当地は未曾有の大旱魃に見舞われており大師はこれを憐れみ山頂の大穴に穴を穿ち 仏舎利一粒を沈め、請雨法を修したところ忽ちに雨を呼び旱魃の苦を救われたとの伝えがあります。

826(天長6)年9月
地蔵菩薩を勧請し高お大権現として当地の守護としました。
この「高お神社」別当職を代々の住職が勤めました。

1536(天文5)年
宥清和上が荒廃していた当寺を整備した時、境内から清らか な水がわき出たところから、これを瑠璃光水と称し寺号を泉福寺としました。

1720(享保6)年
京都から弁回和上晋山し薬師堂を再建、その他塔堂を改築、
その記念として、竜田の紅葉、高野槙(市天然記念物)菩提樹を植えました。

1756(宝暦6)年
当地の領主設楽氏より観音菩薩を賜りお堂を建立しました。
この観音様は曾て土御門天皇の御念持仏といわれ、幾多の変遷を経て氏に伝えられたもの で、瀧正観世音の名で信仰されています。(現在本堂に安置) 明治初期の廃仏毀釈の嵐は当地方にも吹き荒れ、周囲の寺院は廃寺のやむなきに至りましたが、 時の住職良瑞和上は寺役員檀家と協力して寺の護持に力を尽くしました。

1873(明治6)年
学制が発布され当地区は大沢町竜蔵寺に設置された「大沢大教舎」に通う事になりました。
しかし遠路に加えて悪路であり1876(明治9)年、泉福寺本堂を仮用して「猪倉教貫舎」を 開設させ、1891(明治24)年、道正内に移るまで小学校として使われました。

1888年(明治21)年
名古屋から晋山した音全和上は学校転移の後、本堂を改修し 観音堂を建立するなど境内整備を進めました。
音全和上は室キシ女は若年より大師信仰が厚く、四国88ヶ所を巡礼し多くの人の援助 を集め1925(大正14)年、新四国88ヶ所霊場を開創しました。

現在の本堂は1975(昭和50)年に建立した物です。
仏像は本尊胎蔵界大日如来、阿弥陀如来座像、地蔵菩薩立像、弘法大師、興教大師、 理源大師を祀っている。他に寺宝として、十王図十幅、十二天像十二幅、大般若経六 百巻があります。