猪倉城の築城については2説あります。
(1) 1290(天応年間)頃、鹿沼権三郎入道教阿という説
(2) 1520(大永年間)頃、鹿沼右衛門という説
1576(天正4)年、壬生徳節斉周長は壬生家の内紛に際して壬生家家臣の猪倉城
主鹿沼右衛門と共に、鹿沼城城主壬生綱雄を暗殺しました。
そしてさらに壬生嫡流を滅ぼそうとしましたが逆に嫡子壬生義雄に
討たれてしまいました。(徳節斉の乱)
この事件のとき、義雄に従った板橋城主板橋将監親棟によって
猪倉城は攻められ落城しました。
当時、壬生氏は宇都宮氏に従っており、その配下にあった猪倉城は勿論その下で、
小田原北条氏と連帯する日光山勢力への先鋒の位置にありました。
しかし壬生氏4代の嫡流で鹿沼城城主綱雄は、宇都宮市から自立しようとして日光山に
通じていたふしがあり、宇都宮方の徳節斉によって暗殺されたものだと考えられています。
徳節斉は一旦鹿沼城を占領したものの義雄に敗れ、鹿沼城主右衛門も宇都宮方の多気
山城を頼って逃げるところを板橋と猪倉の間、手岡で討たれてしまいました。
大沢町の小字名「陣場」は板橋将監が陣を構えたところといわれ、手岡の山中に散在
する土盛りは合戦の死者の塚といわれています。
手岡公民館の側にある大きな五輪塔は右衛門の供養等と伝えられています。
下猪倉には「犬塚」と呼ばれる塚があり、包囲された城内から救援の密書をつけ
多気山城へ走る犬が敵が見つかり殺されたのを憐れんだ村人が造ったものだとされています。
木和田島には「矢武」「矢畑」という屋号、字があり、猪倉城との関係も想定されています。
940(天慶3)年、平将門が下野の国に入り藤原秀郷と会談し会食の時、米粒を落 とし慌てて拾い食べるのを見た秀郷は、その軽忽なることを知って決別し、やがて平 貞盛と力を合わせて将門を討った故事により「飯喰拉村」の名が起こったといわれています。
塙静夫氏は「栃木の地名」の中で、イは「井」で河川を意味し、クラはクリ(刳)の 転で、崩壊、侵食地を意味するものとし、猪倉は田川、赤堀川の浸食による崩壊地に 由来するものとしています。